アフリカ諸国の独立/アフリカの年/1960年. 15世紀末に始まったスペイン・ポルトガルのアメリカ新大陸植民地経営では、当初インディオの奴隷労働が行われたが、急激に人口が減少したため、16世紀からアフリカ大陸の黒人奴隷を供給する大西洋奴隷貿易が始まった。 まずは、ヨーロッパの植民地支配の歴史を復習したいと思いますが、一言でいえば、当時のヨーロッパ人は非人道的です。しかし、その当時は植民地支配が常識だった時代ですから、今、その国やその国の人々を非難することは出来ないものとして簡単に振り返りたいと思います。  1927年から翌28年までガーナに滞在し、黄熱病の研究に従事した野口英世は、あまりにも有名ですので、彼の業績を記念した野口英世研究所なる施設が日本の協力でガーナ大学に構内にでき、日本の派遣専門家の指導のもと感染症研究が続けられている事実のみをご紹介しておきます。, 今ご紹介した様にエピソードは幾つかはあるのですが、対アフリカ外交の出発点となったのは、1958年の在エティオピア大使館の開設でした。どういう訳か、後でご説明するように対アフリカ外交の節目は8の付く年になっています。次いで、翌59年には戦後のアフリカ独立の第一号となったガーナに大使館を開きましたが、アフリカの年、1960年時点をとっても、わが国のアフリカに於ける在外公館網は大使館4(ナイジェリア、コンゴーが加わる)、領事館2(南ア、ケニア)の僅か6公館体制でした。その後、徐々に大使館網も拡大はしますが、日本外交にとっても、国連での票集め以外は、アフリカまで十分な関心を払う余裕はなく、アフリカにとっても日本は新参者でしかなかった時代が70年代まで続きます。いわば、対アフリカ外交の初期段階と言えましょう。, 私は、わが国の対アフリカ外交の第一段階は、対アフリカODAが本格化した1978年以降だと考えます。1978年は、第一次ODA倍増計画の初年度です。この年を境として、アフリカに対するODAが飛躍的に拡大していきます。このODA3年倍増計画の目標年である80年を74年と比較すると、対アフリカ二国間ODAは、量で46百万ドルから223百万ドルへと5倍に急増し、対世界比シェアでも6%から11%へとほぼ倍増しています。以降、対アフリカ二国間ODAのシェアは概ね11から12%を維持し、ODA全体の伸びに合わせ順調に拡大し、第四次ODA中期計画の初年度たる88年には884百万ドルと80年当時の4倍の規模に膨らんだ次第です。 外務省 主要経済指標・経済指標関連リンク 世界約190か国の中でアメリカと中国とア … 商学研究第49巻第2号 論文 要旨 アフリカ経済の構造と開発政策 岩城剛 日次 1 .アフリカ社会経済の植民地構造~その二重構造の形成 II. 2.植民地経験 アフリカとヨーロッパの関係を考えるとき、植 民地経験は避けて通れない問題である。先の例で いえば、フランスはコンゴ共和国とガボンを植民 地化し、チュニジアを保護領に置いた。保護領と いっても、実質的には植民地である。  人的交流を見ると、99年現在のアフリカ在留邦人は僅か4800人です。私が、かって総領事をしていたデトロイト市の在留邦人数5000人にも及びません。管轄していたミシガン、オハイオ両州の在留邦人数は1万3千人でした。しかも、南アのみで1500人居るので、その他アフリカは全部で3000人超です。他方で、在日アフリカ人数は 4300人とほぼ同じレベルにあります。 スペインによるアメリカ大陸の植民地化 後世に及ぼした影響 植民地支配体制確立後の中南米社会の様相 ポトシのセロ・リコ(スペイン語版、英語版)(富の山)。植民地時代には銀が、ボリビア独立後には錫が採掘された。ポトシの銀はヨーロッパ先進国に流 … (フランス領インドシナでの搾取:wikiより) 大航海時代が到来すると、ヨーロッパ諸国の船が東南アジアに来航するようになりました。1511年、ポルトガルはマラッカを占領し海峡を支配します。1641年にはオランダが、ポルトガルからマラッカ海峡の支配権を奪い取りました。 19世紀に入り、イギリスがマラッカ周辺に進出します。1819年、イギリスはシンガポールを買収し貿易港を作りました。このとき、イギリスはオラン … 特に決定的な出来事は奴隷貿易と殖民地支配の2つです。 【ホンシェルジュ】 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ列強による「アフリカ分割」がおこなわれました。どのような背景があったのでしょうか。この記事では、分割がおこなわれた理由や各国の紛争、影響などをわかりやすく解説していきます。  御静聴ありがとうございました。. こんばんわ。漠然とした質問で申し訳ないのですが、、、。18世紀頃からのヨーロッパの国々が行っていた植民地支配には各国それぞれ何か特徴があったのでしょうか。その中でもフランスの植民地支配の特徴がありましたら教えて下さい><。 (6月30日北海学園大学における講演に加筆したもの), アフリカという呼称は、古代ローマ人がハンニバルで有名なカルタゴを植民地化した後、この地方をアフリカ州と呼んだことに由来すると言われています。長い間、アフリカ大陸は未知の大陸と言われ、人類の好奇心の対象となってきました。アフリカは日本にとってまだまだ十分に知られておらず、日本との本格的接触も漸く本格化しつつあるところです。今日は、このアフリカの置かれた状況とこの地域に対する日本の外交政策について話をしたいと思います。なお、アフリカと言った場合、北アフリカをも含めたアフリカ大陸全体53ヶ国を指す場合と、サハラ砂漠よりも南のいわゆるサブサハラ・アフリカ47ヶ国を指す場合がありますが、ここでは特にお断りしない限りサブサハラ・アフリカを前提にお話ししたいと考えます。, 先ず初めに、世界の中でのアフリカの位置づけを見てみましょう。国の数で47ヶ国、国連加盟国の数が189ヶ国ですから約1/4を占めます。地理的面積は2400万平方キロ、世界の約20%になります。人口では6億3千万人、世界の約10%。それでは、経済規模はと言うと、GNP3千億ドル強、世界の1%に相当します。このGNP3千億ドルと言う規模は、ベルギーのGNPとほぼ同じ、あるいはマレイシアのGNP2つ分に相当します。サブサハラGNPの約半分は南アフリカが占めていますので、経済的には、南アで一つ、それ以外のアフリカでもう一つのマレイシアが存在すると言ってよいでしょう。最近,IT革命との言葉がはやりですが、インターネット・ホスト数ではどうかと言えば、アフリカは世界の約0.25%しか占めていません。正確な統計は手元にありませんが、南アを除いたアフリカでは、世界の0.1%程度ではないでしょうか。米国の人口1万人当たりのインターネット登録台数1508に対し、アフリカは僅か0.48台、米国の0.03%との統計もあります。, 最初から数字ばかりで恐縮ですが、実は、今申し上げた中にアフリカの抱える問題が象徴されています。即ち、「アフリカは、世界の10%の人口を持ちながら、経済規模では1%にしか過ぎず、更にこれからの経済の先行指標になるITについては0.25%の存在でしかない。それでは、世界は0.1%、0.25%の小さい存在を無視出来るか、と言えば、政治的に国連の4分の1の票を持つ存在を決して無視する事は出来ない。それでは、このアフリカの現実に国際社会はどう対応したらよいのか。」これがアフリカ問題の本質と言ってよい。もう少し、詳しくアフリカ問題を見てみましょう。, 歴史的背景を抜きにして、アフリカが現在おかれている窮状を語ることは出来ません。 黒人奴隷/黒人奴隷制度.  日本とアフリカの関係史を述べるのが目的では無いのですが、少しだけ脱線いたします。アフリカとの最初の出会いは、1581年、イエズス会巡察師バリニャーノが本能寺で織田信長を表敬した際、アフリカの黒人を伴った事とされています。研究ではモザンビーク出身のアフリカ人と推定されています。その後、天正少年使節のモザンビーク滞在、万延元年幕府使節団のアフリカ経由などの出来事がありましたが、詳細は省きます。 独立後の自立化政策 (self-reliancepolicy) 1 現地化政策(indigenization) 2.  権力闘争;リベリア内戦などは単純なリーダー間での権力闘争と考えた方が正解かもしれません。シェラネオーネもアンゴラも様々な理由付けは出来るのですが、権力闘争と割り切るのが或いは当を得ているとも考えられます。  この様に、低い人的交流のレベルではありますが、心強いのはJICAベースの技術協力です。特に、青年海外協力隊は98年までの累積で6000人にも及びます。97年時点でアフリカに配属になっている協力隊員数が1000人。南アにはまだ派遣を見ていないので、南ア以外のアフリカ在留邦人数3000人のうち、3分の1が協力隊員という計算になります。その他、累計ベースで専門家派遣が4000人、研修員受け入れが1万5千人。ODA中心の対アフリカ関係を象徴する数字です。  貧困;貧困が紛争を呼び、紛争がまたさらなる貧困を招く、この悪循環こそがアフリカの悲劇そのものです。また、中央アフリカ等いくつかの内戦の経緯を見てみると、給料未払いに対する兵士の不満がクーデタとなり、これが大規模な内戦へと発展していってケースが意外と多いことに驚かされます。  西サハラに地図にも出てこない小さなボジャール岬があります。1415年、ポルトガルがモロッコのセウタを占領し、北アフリカに足場を設けてからも、当時どういう訳か船乗りの間で、このボジャール岬を越えると、その先は暗黒の海で、海水が燃えたぎり決して生きては帰れない、と言う迷信が強く信じられていました。この迷信が生きている間は良かったのですが、1434年、エンリケ王子の厳命によりジル・エアネスがボジャール岬以遠への航海に成功して、迷信が破られてからアフリカの悲劇が始まりました。, 1444年にはポルトガル船がセネガル河に到達し、15世紀半ばにはもう奴隷貿易が始まっていますので、ジル・エアネスの航海から20年も立っていないわけです。そして、16世紀には欧州、アフリカ、新大陸(南北アメリカ)間の三角貿易の中で奴隷の新大陸への輸出が本格化します。奴隷貿易は18世紀にピークを迎え、19世紀になって漸く終わります。この間、大西洋奴隷貿易の規模は、1000万人とも2000万人とも言われており、18世紀のみで560万人に達したと推定されています。奴隷の3分の2は働き盛りの男性と見られており、伝統的社会構造が崩壊するとともに、奴隷狩りによるアフリカ部族どうしの抗争が激化したことは想像に難くありません。奴隷貿易こそは人類史最大の汚点であることは疑いの無いところであり、植民地支配と合わせこれだけの事をしておいて、今になってヨーロッパ人が、グッド・ガバナンス等と説教をたれているのを聞くアフリカ人の心中には複雑なものがありましょう。 フランスはモロッコを影響下におくとともに、1830年にアルジェリア、1881年にチュニジアを保護国とした。フランスは北アフリカ西部のマグリブからサハラ砂漠を越えて大陸の中央部を西は大西洋から東は紅海、インド洋にいたる東西に広がった植民地の拡大を目指す大陸横断政策を推進した。 19世紀までにヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進み、植民地とされていたアフリカ各地で、第二次世界大戦後に独立運動が活発になり、1960年前後に一斉に独立を達成した。 アフリカはかつてヨーロッパの植民地として支配され、独立はできたものの不安定な情勢から内戦や紛争が勃発し、世界の紛争多発地域と見られてきました。 近年は徐々に終息を見せ、紛争の数こそ少なくなりましたが、中央アフリカやコンゴ、南スーダンなど紛争を行っている地域やさらに激化している地域もあり、多くの被害が出てしまっているの …  資源争奪;アフリカの悲劇は、本来、経済発展の貴重な糧になるべき天然資源の存在が原因となって紛争が生じ、かつなまじ資源があるだけにそれを資金として武器輸入が継続され、いつまで経っても紛争が終わらないという事態が現出していることにある。現在シェラネオーネ内戦が新聞を賑わしていますが、この国は良質のダイヤモンドの宝庫として知られており、ダイヤモンド産地を押さえている反政府勢力がダイヤモンド資金で隣国のリベリアを通じて武器を密輸している。反政府勢力のリーダーであるサンコーを逮捕したところ、昨年後半の半年だけでダイヤモンド2100個、450カラットを入手していた事が暴露された。コンゴー・カタンガ州独立紛争、ナイジェリア・ビアフラ紛争なども豊かな資源の存在が紛争を引き起こした典型例です。  アフリカの当事者が全く関与しないまま、ベルリンで紙の上だけで分割を決めたわけで、民族分断国家作りなどと言う次元の話ではなく、ともかく滅茶苦茶な話です。セネガルとガンビア、ギニアとギニア・ビサオというように本来単一の国であるべき領域が、宗主国が違うために非常に不自然な形で別々に独立する。或いは、カメルーンの様に、一つの国の中で仏語圏と英語圏とが併存するという事態が生まれてくるわけです。植民地経営はモノカルチャー経済のお仕着せを通じて、現在のアフリカ経済の脆弱性の最大の原因になっており、不自然な植民地分割は現在の国境紛争の遠因になっているわけです。植民地支配を通ずる統治体制は、アフリカ原住民自体の健全な統治システムの発展を阻害してきました。, アフリカは、1957年のガーナの独立を初めとし、アフリカの年と言われる1960年には一挙に17ヶ国が独立を達成した。しかし、アフリカは独立後も苦難の道を歩く。開発問題、紛争、エイズ等の感染症の3つについて、これを見てみたいと思います。そして重要なことは、この3つの問題が相互に密接にからみあっていることです。, 第一に開発ですが、実は本来、アフリカは天然資源にも恵まれ、また豊かな自然環境にも恵まれている国が少なくありません。そもそも、アフリカの密林などと、いかにも「未開の地」の様に言いますが、自然のままで森林が繁茂し、豊かな河川が流れているほど恵まれた環境はありません。実際、1960年代には、1人当たりGNPで、アフリカは約500ドルと途上国平均の330ドルをはるかに上まわっていた。今でこそ世界の成長センター・アジア等ともてはやされているけれども、当時はアフリカの方が豊かであった。問題は、他の途上地域がいずれも着実に所得を伸ばしてきている中で、アフリカだけは、むしろ停滞するどころか逆に低下していることです。1970年代に約600ドルであった1人当たりGNPが、90年代に入って510ドルのレベルにまで落ち込んでいる。現在、アフリカの6億を超える人口の半分が、一日当たり0.65ドルで生活している現実がある。  この様な人的派遣の面での貢献に加え、わが国は資金的貢献も積極的に実施しており、大湖地域紛争が深刻化した94年以降2000年3月までの間に資金貢献した額は、6億ドルを上回ります。その中心になるのは難民対策と食料援助ですが、OAU平和基金への145万ドルの拠出など和平プロセスの直接支援、及び地雷除去への協力も含まれます。更に、知的貢献と称して、95年の国連との共催による「アフリカ紛争セミナー」開催以来、数々の国際セミナーを開催してきています。わが国は、青木在ケニア大使をアフリカ紛争大使に任命し、紛争当事国への直接の働きかけをしていますが、その他様々な政治レベルで和平への働きかけをし、政治的貢献にも努めているしだいです。, 私は、1998年の第二回東京アフリカ開発国際会議、TICAD IIの開催により、現在、第三段階に入っていると認識しています。TICAD I の開催は1993年ですので、93年以降と言うべきなのかもしれません。しかし、開催することに意義があったTICAD Iと異なり、TICAD IIは、日本が国際会議を主催した事に加え、アフリカ開発戦略の策定と言う政策面で世界をリードした点で、新しい段階を開いたものと考えます。, それでは、日本外交にとって、「何故、今アフリカなのか」について一緒に考えてみましょう。その前に、日本・アフリカ関係の現状を概観してみたいと思います。 どから、アフリカ諸国は慢性的な貧困状態にあること を理解する。 写真を通じて、ザンビアがイギリスの植民地であったこ とやその影響で現在でも銅のモノカルチャー経済であ ること(写真1)、隣国の大国南アフリカ共和国からの  これまで、こうゆう場合には大体、国連での票、人道的配慮、資源、将来の経済関係の4点が正当化事由として使われてきましたが、私自身は納得していません。国連の票取りに大票田たるアフリカの支持が必要なことは、私自身、ついこの前までUNESCO事務局長選挙で松浦候補を担いで選対事務局長役をしていましたので骨身に沁みているところです。しかしその為だけならば、選挙の時だけ票を持っている国に援助をばらまくなり、首都詣でをすれば良いわけです。人道的配慮は、アフリカに歴史的責任を有しない日本としては欧州にお付き合いする程度で十分です。アフリカの資源確保については、そもそも石油の対中東依存の様な状況にありません。アフリカの産出量シェアが高い鉱物資源としては、例えば白金の76%、クロム鉱の63%、バナジウム鉱の46%、ダイヤの41%等がありますが、どれもが一国の経済を左右するような戦略性はありません。それでも、冷戦時代は希少金属の戦略性が喧伝された事もありましたが、冷戦終焉後は市場でいくらでも購入できる訳です。将来の経済関係と言っても、日本経済にとって1%の存在にしか過ぎない現状からすれば説得力はありません。, 結局、わが国にとってアフリカは、日本が国際社会にあって、真にグローバルな役割を果たして行ける国であるか否かを示す試金石であると確信しています。その意味で、もし日本がアジア太平洋地域のリージョナル・パワーに止まる事をもって良しとするならば、程々に付き合うだけで良い地域でしょう。現に、70年代の対アフリカ政策はそうでした。しかし、日本が、国際社会の責任ある有力国としてグローバルな役割を担うのであれば、アフリカを避けるわけにはゆきません。グローバル・パワーの資格は、特定の地域だけではなく、およそ世界の主要の地域問題に対しては主体的に取り組み、責任を果たして行く意志と能力を有しているかに掛かっているものと考えます。しかも、既にお話したように、一方において、アフリカ問題こそは「21世紀の世界の安定と繁栄」の鍵を握る問題であり、他方に於いて、日本は、アフリカに対し欧州が負う様な歴史的責任を有しないだけに、アフリカ問題への取り組みは、明確な形で日本外交にとっての試金石になるものです。, 既に、日本の対アフリカ外交の推移につき、78年以来のODAの飛躍的拡大、88年以来の紛争解決への協力の展開に言及しましたが、昨今のエイズの深刻化に鑑み、私は、今後の対アフリカ外交の柱は、ODA、紛争解決、エイズ等の感染症対策の3点と考えています。連続講義であれば、次回、次次回と、その一つ一つの柱につき今後の課題と取り組みをお話しするのですが、既に持ち時間も大幅に超過していますので、ここで終わりたいと思います。 19世紀から20世紀にかけて、技術的に進んだ欧米諸国がアジアやアフリカなどを植民地として支配します。植民地時代に欧米諸国の資本が現地の労働力を使って開発した大農園がプランテーションでした。プランテーションでは価値の高い商品作物が生産されま …  解放・独立闘争;1960年代に比較的すんなり独立を達成出来た国は良いのですが、白人支配の続いていたジンバヴエや、宗主国がなかなか独立を認めなかったモザンビーク、ギニア・ビサオ等の旧ポルトガル領では長い間、解放独立闘争が続いた。, 第三の課題で近年ますます深刻化しているのが、エイズ等の感染症問題です。国連(UNAIDS)の発表では、99年末での世界のエイズ罹患者3400万人のうち、なんと3分の2に当たる2500万人がアフリカです。ただし、これはあくまでも公表数字であり、実数はこれを遙かに上回っている事は確実です。1990年から2000年の間で、南部アフリカの多くの国では、エイズのために平均寿命が50歳台から40歳台へとほぼ10歳短くなっており、更に今後、アフリカ人全体の平均寿命を20歳短縮するとの予測すらあります。国によっては、成人のエイズ罹患率が30%を上回っている例があります。ここまで来ると、国家、社会の存続それ自体が問われている訳で、エイズ問題こそは最大の安全保障問題になっています。, アフリカほど、冷戦構造により、また冷戦終焉により翻弄された地域は無いのではないでしょうか。先程ご紹介したアンゴラUNITAを巡る米国の対応の変化は、この間の事情を雄弁に物語るものと言えましょう。また、2~3ヶ月前、韓国外務省とアフリカについての協議をしましたが、冷戦時代には北朝鮮対策から、アフリカに27の大使館を置いていたのが、現在は僅か9大使館にまで減らしているとのことでした。, 冷戦終焉後のアフリカについては、そのMARGINALIZATIONの危険性が心配されています。若干聞き慣れない言葉かもしれませんが、周辺化あるいはもっと端的に「世界から忘れられてしまうこと」とご理解ください。  第一に、世界の国数の4分の1を占めるアフリカの圧倒的な政治的存在の大きさがあります。仮にアフリカが精々数カ国程度の存在であれば、或いは上手に無視することも出来るかもしれません。しかし、構成の4分の1が不満と疎外感を有する社会が安定するわけがありません。冷戦後の唯一のスーパーパワーたる米国の意向を無視して世界をマネージ出来ないのも現実ならば、世界の4分の1の不満分子を無視して世界の安定と繁栄を期待できないことも現実です。  例えば、開発援助。アフリカの1人当たりODA受け取りは、90年には32ドルであったものが98年には19ドルへと減少しています。DAC諸国の二国間ODA全体に占めるアフリカ向けのシェアも、89年の22%をピークとして漸減し、98年には16%へと大幅に低下している。この背景としては、第一に、もともと対アフリカ援助は東西冷戦を背景とした両陣営からの援助合戦の要素が強かったものが、冷戦終焉後、アフリカの戦略的価値が低減したこと。第二に、冷戦終焉後、東欧や中央アジアへの援助需要が高まり、アフリカにとっての競争相手が登場したこと、の2点が指摘されています。加えて、いくらODAを注ぎ込んでも改善しないアフリカの状況の前に、援助国全体に「援助疲れ」減少が出ていることが根底にある。, 紛争についても、実は冷戦終焉後、むしろ活溌化している現実がある。紛争の発生数は、60年代6件、70年代5件、80年代6件と推移してきたものが、冷戦終焉後の90年代には15件へと急増している。イデオロギー対立が終焉した後、民族対立、地域紛争が顕在化した典型例がアフリカと言えましょう。 イギリスの植民地には大きく分けて二つあります。「旧イギリス植民地」と「現イギリス植民地」です。 旧イギリス植民地は「イギリス帝国時代に植民地であったが、現在は独立している国々のこと」を示しています。 アフリカに残るヨーロッパによる植民地支配の影響は? 現在は独立したといっても、かなりの期間支配されていたので、多くのアフリカ諸国は現在でも旧宗主国の影響を強く …  日本人も結構昔から海外で活躍していたのだな、と感心するのは、赤崎伝三郎とバルティック艦隊のエピソードです。1904年当時、遠くマダガスカル島にまで、一稼ぎするために天草出身の日本人が上陸し、ディエゴ・カオス港で酒場を開いている。この人が赤崎伝三郎その人で、丁度その頃、日露戦争で有名なロシアのバルティック艦隊がこの港町に停泊し、早速、赤崎はボンベイの日本領事館武官にその旨をモールス信号で報告し、日本海軍はいち早く敵の所在を把握できた訳です。この赤崎と言う人は余程商才に恵まれていたとみえて、オテル・デュ・ジャポンという名のホテルを経営し成功を収めている。 ‚̐ì‚́H, ƒAƒtƒŠƒJ‚̃Tƒnƒ‰»”™‚ð’m‚낤FêŠ/‹CŒó/lŒû‚È‚Ç, ƒAƒtƒŠƒJ‚Å—L–¼‚ȃRƒ“ƒS–~’n‚Á‚Ä‚Ç‚ñ‚ȏꏊH“Á’¥‚È‚Ç. アフリカ分割(アフリカぶんかつ)とは、1880年代から第一次世界大戦前の1912年までにかけて、ヨーロッパの帝国主義列強によって激しく争われたアフリカ諸地域の支配権争奪と植民地化の過程のこと。. (ロンドン万博:wikiより) 19世紀中ごろ、「世界の工場」と呼ばれたイギリスでは他国に先駆けて産業資本主義が成立させます。資本家たちは自由に競争し、イギリスの経済を発展させました。イギリス政府は世界各地に進出し、外国を原料の供給地や商品販売の市場となる植民地化します。 19世紀後半に石油や電力を使う第2次産業革命が起きると … アフリカは植民地支配を受けていました。 多くの黒人が奴隷としてヨーロッパに連れて行かれたこともあったのです。 現在でも植民地支配の影響が残っているということも、しっかり覚えておきましょう。  この政策スピーチ発表の翌年、1989年にはアフリカでの紛争解決のために初めて人的派遣が行われました。国連ナミビア独立支援グループへの選挙監視要員27名の派遣です。この時、団長を勤めたのが、在ペルー大使館人質事件で有名になった青木大使です。その後、92年のアンゴラ、97年のリベリアと紛争解決の一環として、わが国から選挙監視要員を派遣しています。93年には、アフリカに初めて自衛隊員の派遣が実施されました。国連モザンビーク活動への67名の自衛隊員派遣です。翌94年には、ルワンダに401名の自衛隊員が派遣されている。 そのとき、現地で会ったマリ人がこんな話をしてくれた。「マリとかブルキナファソとか、フランスに植民地支配された国は発展が遅れているんだよ。フランスが支配していた国はダメだ。でも、ガーナやナイジェリアを見ろよ。発展しているだろ? 人類発祥の地であるアフリカは豊かな自然と天然資源に恵まれていますが、世界の中で最も多くの武力紛争が発生している地域でもあります。アフリカの内戦は現在どうなっているのでしょうか。アフリカの内戦の原因と歴史について調べました。  冷戦時代の代理戦争;現在、アンゴラの反政府組織UNITAは目の敵にされ、安保理でもUNITA制裁決議案が採択されていますが、冷戦時代のついこの前までは、このUNITAを米国、南アなどが支援し、ソ連、キューバが支援するMPLAと対峙していたわけです。アフリカの角も米ソの代理戦争の場となっていた。 植民地支配を通ずる統治体制は、アフリカ原住民自体の健全な統治システムの発展を阻害してきました。 (独立後の苦難) アフリカは、1957年のガーナの独立を初めとし、アフリカの年と言われる1960年には一挙に17ヶ国が独立を達成した。  宗教対立;スーダン内戦の背景には北部回教徒と南部キリスト教徒との対立が背景にあるし、ナイジェリアでも北部回教徒と南部キリスト教間の対立は不安定要因になっている。  1978年当時、私は経済協力局で技術協力を担当していましたが、特にアフリカに対する特別の援助政策があったわけではなく、ともかくODAの量的拡大を図る中で、援助ニーズのあるところにODA供与をしてゆく中で、結果としてアフリカへのODAが飛躍的に拡大していった、と言うのが実状でした。そして、気が付いてみるとアフリカの多くの国で日本がトップドナーになっていた事を発見した訳です。いつの間にか,ODAを媒介として日本はアフリカに深く関わって来た次第です。, 第二段階は、1988年からで、紛争解決への協力が本格化しました。それまでの日本のアフリカへの関わりは、専らODAを通ずる協力に限られてきたのですが、1988年を境にしてODAに加え、紛争解決への協力が開始されます。この年、当時の竹下総理がロンドンで政策スピーチを行い、「国際貢献策」を発表した。この中で、従来のODAに加え、平和のための協力、国際文化協力の3本柱を立てました。当時、ゴルバチョフの登場でソ連が変貌を遂げつつある中で、冷戦構造が崩壊を始め、米国内でも「悪の帝国ソ連」に代わり、「米国にとっての真の脅威は日本」との類の論評が盛んになって来ていた時です。また、「顔の見えない日本」との批判もよく聞かれました。経済以外の分野での国際貢献が求められていた訳です。 植民地支配による影響. アフリカ唯一のg20参加国であり、2010年には史上初めてアフリカ大陸でサッカーのワールドカップを開催している。またアフリカ第2の経済大国はエジプトであり、北部アフリカにおいて影響力の強い国の一つになっている。 フランス植民地期西アフリカにおける初期植民地教育 ―ジャン・ダールと相互教授法に焦点をあてて―(谷口) 1 はじめに 現在の西アフリカ一帯の多くは,「仏領西アフリカ」(Afrique Occidentale Française: 1895 年-1958 ... 識・志向に何らかの影響を与えた … アフリカが植民地にされていた理由は? アフリカに残るヨーロッパによる植民地支配の影響は? アフリカの旧宗主国と今なお残る影響とは? アフリカ諸国が独立できた理由とは? アフリカの神話上の生物がヤバすぎる… アフリカで有名な神話って何?  少々脱線しますが、解放奴隷を中心にして出来た国が西アフリカに2つあります。リベリアは、米国のキリスト教団体が黒人解放奴隷を入植させたことがきっかけになって、黒人解放奴隷が中心となって1847年に独立した国です。その隣のシェラネオーネは、英国において奴隷制廃止運動が高まり、1807年に奴隷貿易廃止令が出される中で、英国が建設した解放奴隷の入植地が核になって出来た国です。首都のフリータウンはまさに奴隷の自由解放に由来する。, 植民地支配の歴史は、本日の講演の目的では無いので、詳しくは立ち入りませんが、少しだけ触れたいと思います。アフリカの地図は国境が定規で測ったように直線になっています。そうかと思うと、ギニア湾西アフリカの国々はどれも細長い形をしています。いずれも 1884年のベルリン会議で決まった事です。この会議は、ドイツのビスマルク宰相がアフリカの植民地分割を決めるために欧州諸国に呼びかけたもので、米国、オスマン帝国を含め14ヶ国の出席のもとで開かれました。トーゴーやベニン等、ウナギの寝床の様な形になったのも、海岸を領有すれば基本的に内陸部分にまで領有権が及ぶとのルールがこの会議で決まった事の結果です。ところで、国境がほとんど直線と言うなかで、キリマンジャロ山に近いタンザニア国境は曲線になっています。これは、会議で、キリマンジャロ一帯をドイツ皇帝ウィルヘルムI世の誕生日祝いの贈り物にするとの趣旨で、山麓を含めてドイツの領有を認めた結果といわれています。  第三に、現在のアフリカ問題の淵源が、奴隷貿易、植民地支配にまで遡るのであれば、アフリカ問題は人類の負の遺産とも言うべき性格を有しています。勿論、日本はこの点で手を汚していないのですが、欧州にとってアフリカ問題が道義的問題と言われる所以です。, それでは、以上にご紹介したアフリカ問題に、わが国として、これまでどう関わり、また今後如何に取り組むべきかが、次のテーマになります。  第二に、開発問題、紛争そしてエイズ問題にしても、いずれも人類共通の課題と言った性格の問題です。体調が悪いときは歯だとか腹だとか、その人の一番弱い部分に出てくると言われますが、いわばアフリカと言う一番脆弱な部分に出てくると言えましょう。これだけ交通、通信の発達した時代にこういった問題をアフリカのみに閉じこめておくことは出来ません。 現在は、多くの国が独立を果たしていますが、長い間植民地支配にあっていたことで、 多くの影響が今でも出ています。 テストでも問われることがあるので、どのような影響が出ているのかを軽くお話ししておこうと思います。  アフリカ紛争の要因となると、これだけで国際セミナーのテーマになりますので深入りは避けますが、何か単一の理由と言うよりも様々な要因が複雑に絡みあっていると言うべきでしょう。それだけではイメージが湧かないでしょうから、敢えていくつかの具体例を挙げてご紹介してみましょう。 アフリカが直面する課題とわが国の対アフリカ外交 植民地支配の影響に苦しむフィリピン・ネグロス島、モノカルチャーを乗り越えられるか - ganas 開発メディア。途上国を知る。世界が広がる。 アフリカ諸国が独立を果たした現在では、アフリカ植民地は遠い過去の出来事にも思えます。ですが、アフリカ諸国の貧困や紛争など、アフリカ植民地の爪跡は現代の世界にも大きな影響を与えているといえます。  最近、世銀が「アフリカは21世紀に生き残れるか」と題する報告書を出し、注目を浴びていますが、アフリカの開発問題の課題について4点を指摘している。即ち、(1)紛争の頻発と弱い統治制度,(2)脆弱な人的資源----教育問題、年間2万人を超える頭脳流出、エイズ等の感染症など,(3)モノカルチャー依存経済の脆弱さ----交易条件は悪化し、対外債務は97年末で2200億ドルに上ってる,(4)外国からの援助資金低下、の4つです。, 第二に紛争です。アフリカ47かヶ国の中で、これまで国際紛争も内戦も経験したことのない国は20ヶ国、更にこれに加えクーデタすらも経験したことがない国となると、ザンビア、ジブチ、ボツアナ、マラウィ等僅か10ヶ国しかありません。およそ殆どのアフリカ諸国が何らかの形で紛争の被害にあっているわけです。紛争の被害についての数字は事欠きませんが、紛争によって5人に1人が被害にあい、アフリカ全土で2000万個の地雷が埋設され、紛争によって1600万人の国内避難民と300万人の難民が生じている。紛争は貧困の主な原因の一つであり、コンゴー紛争を抱える中部アフリカを例に取れば、GDP成長率を2%引き下げているとの分析があります。 1953年にスターリンが死亡しますが、それまでソ連はアフリカに対し、あまり行動起こす事はありませんでした。 もともとソ連は第二次世界大戦の後、自分の国を立て直すことで一生懸命だったのです。 また、スターリンは「植民地の人間は自分たちの手で解放を勝ち取るために立ち上がり、戦わなければならない」と考えていました。 そのためアフリ …  こうした疎遠な関係は、世論調査の上にも出てきます。平成元年以来、総理府の「外交に関する世論調査」にもアフリカについての質問が設けられています。「アフリカ諸国との関係を深めるべきか」との質問に対し、平成元年では「現状程度で良い」が41%、「関係を深めた方が良い」が37%、とほぼ並んでいたのですが、年々両者の差が開き、平成9年度では、「現状程度で良い」が49%、「関係を深めたほうが良い」は33%に落ちています。また、平成11年度の調査では、「アフリカに親しみを感じるか」との質問に対し、70%弱が「親しみを感じない」、20%弱が「親しみを感じる」と回答しています。, 「一国の外交は所詮その国の国民意識の投影」、であるとするならば、この様な現実の下で対アフリカ外交の必要性を国民にどう説明すれば良いのか、が問題になります。日本の隣国アジア、日系人のいる中南米、石油依存の中東、と言った分かり易い関係がアフリカには見当たりません。  紛争の激化の一方で、当然、アフリカの指導者側にも危機感は強く、ザンビアのチルバ大統領は、「現在、アフリカの最大の課題は、紛争を終息させて、発展への道へ向かうことである。そうでなければ、アフリカは世界から忘れられてしまう。」と述べています。本年6月のエティオピア・エリトリア間の休戦合意樹立に際しては、アフリカ統一機構(OAU)が中心的役割を果たしましたが、紛争解決へのアフリカの自助努力の高まりの背景にも、アフリカ自身の危機感があります。, 冷戦の終焉はまた、「敵はいなくなったが、回りじゅう競争相手だらけ」と言う世界を現出し、市場経済と民主主義のもとで世界的規模での競争を求められるグローバリゼーションの時代を生みました。そして、IT革命がこの世界的規模での競争を加速化し、世界をIT技術を有するものと有しないものとに二分するがごとき事態を現出しているわけです。本日の話の最初に、「アフリカは経済で世界の1%、ITで0.25%の存在」と申し上げましたが、まさにこの分野でも、このまま行けばアフリカは世界から忘れられた存在になる事が懸念されます。, この様に問題山積のアフリカですが、国際社会としてどう対応すれば良いのでしょうか。結論から言えば、「アフリカ問題の解決なくして21世紀の世界の安定と繁栄はない」と考えます。