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みんなバッフェ言っていました。, 恋愛ポエムを読むのが趣味なのですが、恋愛ポエム、ポエム画像、ブログ、インスタなどなんでも構いません!みなさんのおすすめのポエマーの方がいらっしゃったらぜひ教えてください!!. S.56再版/カバー宮田雅之. すべての商品を見る 少なく表示する. 著者:江戸川乱歩 昭和34年11月に桃源社から出版ぺてん師と空気男の主要登場人物空気男(くうきおとこ) 本名は野間。本作の語り手。職にはついていない。好奇心が旺盛。記憶力は良くない。探偵小説などを好む。伊藤錬太郎(いとうれんたろう) プラク 即決 3,000円. 管理人がひたすら本を紹介するブログ。 ... 芋虫 江戸川乱歩 (05/23) おしいれのぼうけん 古田 足日 (05/23) はじめまして! (05/23) 最新コメント . このオークションの出品者、落札者は ログインしてください。 この商品よりも安い商品. 1. 『江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎』(えどがわらんぽシリーズ あけちこごろう)は、1970年4月4日-9月26日まで、東京12チャンネルの土曜日20:00-20:56(12月11日と12月18日には、金曜日21:00-21:56)枠で放送された、東映制作のテレビドラマ。 Amazonで江戸川 乱歩の化人幻戯 「明智小五郎」シリーズ (角川ホラー文庫)。アマゾンならポイント還元本が多数。一度購入いただいた電子書籍は、KindleおよびFire端末、スマートフォンやタブレットなど、様々な端末でもお楽しみいただけます。 江戸川乱歩傑作集2 人間椅子 屋根裏の散歩者. 結納金は渡さなくても新居(アパート)代は多く払えば問題ないでしょうか? 角川文庫. 江戸川乱歩・少年探偵シリーズ(11) 鉄塔王国の恐怖 (ポプラ文庫クラシック) - 江戸川乱歩 - 楽天Koboなら漫画、小説、ビジネス書、ラノベなど電子書籍がスマホ、タブレット、パソコン用無料アプリで今すぐ読める。 江戸川乱歩作品集 十 江戸川乱歩. 名前. 江戸川乱歩の「芋虫」でZ武さん俳優デビュー. S.55再版/カバー宮田雅之. 124 ... ガチ勢乙 ハロウィン通り越してるわ . 角川文庫. URL. 江戸川乱歩. 江戸川乱歩. 300-K1514. 関連電子書籍. 江戸川乱歩といえば? 1位から10位 . 黒蜥蜴 2275票. 乱歩初心者で、今はたまたま古本屋で見つけた文庫を2冊ほど読んだだけです。これから作品を集めて読みたいと思うのですが、検索してみるとかなりの数の作品があるようで、どれから読めば良いのかわからず困っています。楽しみ方の順序、 江戸川乱歩傑作集2 人間椅子 屋根裏の散歩者【イラスト入り】 江戸川乱歩、咎井 淳. 江戸川乱歩様へ 自分は同じ趣味の友人が少ないので乱歩さんと話を出来るのはとても嬉しいです 自分の下手なトリックをなんとか上手く出来るようにがんばって練習しておきます 萩原朔太郎: 宮沢賢治 一: 江戸川乱歩 … 9位 地獄風景 208票. 江戸川乱歩クイズ 第1回配信~第7回配信分 第一回配信分(全て初級篇に収録)〔E・キングさん作成〕(2000/3/xx) 一、短編『D坂の殺人事件』で、殺された古本屋の女房と明智小五郎との関係は? また、両家が初めて顔合わせ、両家とも子供の結婚が初めてなのでしっかりとしたお店でしたいと考えています。 それは乱歩は徹底的に「みかけ」を重視したということだ。 では、「みかけ」とは何なのか。 平凡社のコロナ・ブックスに『江戸川乱歩』があって、そこに13人の執筆者が13のキーワードをあげている。 「江戸川乱歩(エドガワランポ,Rampo Edogawa,エドガワランポ,Rampo Edogawa)」が携わった映画50作品を紹介。「メビウスの悪女 赤い部屋(2020年8月21日(金)公開)」の原案。「超・少年探偵団NEO -Beginning-(2019年10月25日(金)公開)」の原案。 テーマ:読書感想文 - ジャンル:小説・文学. 袖のない、フードのついた、黄色のやつです。 著者:江戸川乱歩 昭和34年11月に桃源社から出版ぺてん師と空気男の主要登場人物空気男(くうきおとこ) 本名は野間。本作の語り手。職にはついていない。好奇心が旺盛。記憶力は良くない。探偵小説などを好む。伊藤錬太郎(いとうれんたろう) プラク 「芋虫」 のあらすじを起承転結で短く簡潔に解説!ストーリーのネタバレ注意!→須永中尉は戦争により、両手両足、感覚機能を失ってしまいます。そんな須永中尉の世話をしていたのは妻の時子ですが、時子は、彼を虐めることで快感を得ていたのです。 私、彼ともに24歳です。 乱歩初心者で、今はたまたま古本屋で見つけた文庫を2冊ほど読んだだけです。これから作品を集めて読みたいと思うのですが、検索してみるとかなりの数の作品があるようで、どれから読めば良いのかわからず困っています。楽しみ方の順序、 江戸川乱歩.
◆きのう、浅草のギャラリーで、松田行正・臼田捷治と「戸田ツトムのブックデザイン展」をめぐる鼎談をしてきた。聴衆はすべてリモート。こんなに早く戸田君が亡くなるなんてと思いながら話したので、あの繊細で鋭く、切断と陰影に充ちていた戸田君のエディトリアルデザインを偲ぶのが痛ましかったが、せめてブックデザインやエディトリアルデザインのことがもっと世の中の話題にのぼるようにとの思いで、あれこれ話した。◆本というもの、実に多様な職人と諸事情とコンテンツが集約されて出来上がっているもので、「著者がいて、本ができました」なんてことはありえない。版元、エディター、著者、ライター、文字組、写真家、図版屋、印刷関係者、製本、書店、販売営業、帯づくり、いろいろな努力としくみが複合化する。それが本だ。ブックウェアだ。なかで「造本」という領域が実に多彩な仕上げに向かっているわけで、この分野のことはもっともっと語られなくてはいけない。◆ぼくはさいわい杉浦康平さんの薫陶を受け、30代に「遊」を通して多くのクリエイターに出会えてきたので、本や雑誌がどのように出来上がり、どんな才能が起爆したり切り取られていくかをつぶさに間近で体験することになったけれど(その現場に戸田君もいたわけだが)、いまは何でもネットでコミュニケーションができると思われ、ウェブユーザーがオーサリングできていると勘違いされているので、本の「独壇場」がどんなものかは、ますますわからなくなっている。残念だ。◆貨幣が電子マネーになったわけではなく、森の生活が都市のビル住まいになったわけではなく、演劇が古典ギリシアとともにあるように、今日の本も2000年にわたる積層された変遷を、いまなおあれこれ演じているのである。戸田君や松田君はそれを引き受けてきた。◆そういう本の姿を思い切った方法でもっと堪能してもらおうと思って用意した「エディットタウン」が、角川武蔵野ミュージアムの4階に、高さ8メートルの本棚劇場とともにオープンした。ワインディングするブックストリート、違い棚ふうの本棚、大小4段階におよぶ立体見出しの出入り、天井から吊り下がる数々の多変バナー、横置きを辞さない提示法、本棚に埋め込まれたチビモニターたちなど、いろいろ工夫してみたので、かなり賑やかだ。おかげでかなり話題になっている。◆本はつくるときにはいろいろの手立てが総合されているのだが、これがいったん流通に入ると、まことに寂しく、通りいっぺんになる。大手取次店の配本にもとづき、書店も図書館も十把一からげになっていく。図書館の10進分類も管理のためばかりで、なんら訴求力がない。閲覧室は病院のようだし、書庫は墓場のようだ。◆とくに書店は、もっと好きに棚組みをしたり好きに飾ってもいいはずで、本以外のものも置いてもいいのに、そうしない。これではネットに顧客を奪われても仕方ない。だいたい書店はサービス業だと思っていないようだし、書店員は「いらっしゃいませ」も「ありがとう」も言わない。本を見て、本を選ぶという行為にまつわる工夫もしない。たとえば本は3冊以上持ってレジに行くのが手いっぱいになるのだが、ちびカゴもカートもない。◆一番まずいのは、書店は「知的なお店」だと思いすぎていることだ。本はそもそもありとあらゆる分野をカバーしているコモディティで、そこには哲学からポルノまでが、お仕着せから被害の告発までがある。くだらない本もたくさん混じっていて、それで本屋さんなのである。済まして並べていて、いいわけがない。◆ついでに言うけれど、ブックカフェなるものもふえているようだが、かっこを付けすぎていて、いただけない。もっと、片隅にボロボロのマンガ本が並んでいた昭和の喫茶店のようものも、復活してほしいのである。ぜひエディットタウンを見てほしい。, ◆トランプは血迷っているから今年いっぱいの先行きがどうなるかはわからないが、大統領選挙はバイデンに軍配を上げた。だったらバイデン、ハリスのお手並み拝見である。それはそれとして、ここに至るまで、日本のマスコミや論壇やコメンテーターがトランプの暴論暴走を正面きって叩かなかったのが、なんとも信じられない。バイデンとの政策比較に汲々としたからだろうが、暴論暴走は大いに叩けばよろしい。様子を伺って、それまでは右顧左眄して、結果が出てから「ほれ、みたことか」と言うのは、もうやめたほうがいい。ジャーナリストも論者も育たない。◆アメリカではトランプを「性差別の先頭を走る」「マフィアのボスだ」「管制塔に紛れこんだ12歳児」といった批判が乱れとんだ。ボルトンやコーミーらの元側近による暴露本も囂(かまびす)しかった。それらのトランプ批判がどのように的を射ていたかはべつにして、これにくらべると、日本はたんに臆病だった。情けない。◆理由はいくつもあろうが、そのひとつに、いつのまにか日本の論調が、ひたすら「わかりやすさ」に向かうようになったということがある。お粗末きわまりないけれど、どこもかしこも「わかりやすさ」に落着することを選ぶようになった。事の是非に鉄槌を食らわせることも、文春砲まかせで、できるだけ避けるようになった。◆最近、河出の編集出身の武田砂鉄が『わかりやすさの罪』(朝日新聞出版)を書いて、「わかりにくさ」において気持ちが通じることの重要性を説いていた。その通りだ。「偶然」に対する希求と筋力が落ちているという指摘も、その通りだ。武田は『紋切型社会』(朝日出版社)や『日本の気配』(晶文社)でも、そうした山本七平の「空気」批判のようなことを書いていた。ただし、なぜ「偶然」(偶有性)がすごいのかを説明しなかったのが残念だった。◆「わかりにくさ」といえば、日本の左翼活動の言説はまことにわかりにくかった。60年代半ば、ぼくもその一翼にいたのでよくよく実感したが、わかりにくければそれでいいというほど、舌足らずでもあった。ブント用語、全共闘用語というものもあった。では、なぜそんなふうになったのか、その事情の渦中を浮上させようという試みが、このところふえてきた。情況出版や明石書店など、いろいろ新たな分析が出ているし、懐かしい津村喬の『横議横行論』(航思社)や長崎浩の『革命の哲学』(作品社)なども出ているが、鹿砦社が構成した『一九七〇年 端境期の時代』を興味深く読んだ。◆田原総一朗のインタビューから始まって、フォークをやめた中川五郎、水俣病闘争の渦中にいた矢作正、大阪万博をふりかえった田所敏夫、新宿で模索舎をやりつづけた岩永正敏、赤軍事件背景を「山小屋論」として綴った高部務、そして板坂剛による仮想「革マルVS中核」ディベートやよど号事件以降ピョンヤンにいる若林盛亮の回顧談など、いずれも読ませた。1970年の詳細な年表も挿入されている。◆1970年は、東大全共闘が撃沈し、安保改定が確立し、大阪万博が開かれ、三島由紀夫が自害した年である。数々の「わかりにくさ」と「犠牲」と「総括」が渦巻いた最後の年であったかもしれない。, ◆コロナと猛暑とリモートワークで日本がおかしくなっている。だいたいGOTOキャンペーンが最悪の愚策だった。そこに自治体首長たちの自粛要請、保健所とPCR検査の機能麻痺、しだいに重々しくなってきた医療危機、発言確認ばかりで満足しているリモートワークが重なり、それに猛暑日・熱帯夜・熱中症が加わった。おかしくないほうが、おかしいほどだ。◆外出自粛でコトが済む時期はとっくに過ぎた。水道の元栓を開いたままで蛇口の分量を調整しようというのだから、これではコトの予測さえ成り立たない。そこをたんなる自粛で乗り切ろうとすると、「いびつ」がおこる。外出先を制限すれば、居住性のほうに危険が移る。いまや危険なのはキャバクラやホストクラブではなくて、家庭のほうなのである。お父さんが自宅で仕事をして、大きい姉さんが仕事場に出られず、弟が学校に行けず、早やめに小学校から帰ってきた末っ子が騒ぎ、いよいよ爺さんか婆さんが勝手な望みを言い出せば、母親は苛々するばかりだ。おかしくならないほうが、おかしい。◆ところでコロナ・パンデミックについての論評には、まだ芳しいものがない。なかでイタリアの素粒子物理学者パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』(早川書房)は、コロナ発祥拡散直後の3月に書かれたエッセイで、1カ月ぶんの激変の中で綴られた、涼やかだが、思慮深いエッセイだった。◆ジョルダーノが言いたいことは次の5点だ。①いま僕らの頭脳が試されている、②われわれはまだ複雑性についての対処に取り組めていなかった、③感染症の数学として、感受性人口(Susceptibles)、感染人口(Infection)、隔離人口(Removed)の3つのパラメータによるSIRの計算が必要である、④市町村の単位ではない共同体についてのモデルを考えなければならない、⑤感染症の根本要因は僕らの軽率な消費活動にある。◆日本ではダイヤモンド・プリンセス号に入った岩田健太郎の『新型コロナウイルスの真実』(KKベストセラーズ)や病理医の堤寛による『感染症大全』(飛鳥新社)などのような啓蒙書か、富山和彦『コロナショック・サバイバル』(文芸春秋)、高橋洋一『コロナ大不況後、日本は必ず復活する』(宝島社)、ムックの『アフターコロナ』(日経BP社)などの経済コロナ対策本が多い。緊急に小説も書かれた。たとえば海堂尊の『コロナ黙示録』(宝島社)だ。海堂得意の桜宮サーガのバチスタ・シリーズに乗せた政権批判小説だった。病理と国際政治学との関連性にふれた詫摩佳代の『人類と病』(中公新書)もあった。◆野田努君らのエレキング・ブックスからは『コロナが変えた世界』(Pヴァイン)が刊行された。ブライアン・イーノとヤニス・ヴァルハキスのポストコロナ社会のヴィジョンをめぐる対談が目玉になっていたので期待したが、これは得るものがほとんどなかった。イーノがこんなにも能天気だとはがっかりする。それより内田樹、宮台真司、上野千鶴子、篠原雅武に対するインタヴューの答えのほうが、ずっとおもしろかった。◆内田は、コロナ問題でまたまた日本の統治機構の劣化と、日本人が「ものさし」をつくっていないことが露呈したと指摘。『方丈記』とともに漱石の『草枕』を推薦しているのが粋なはからいだ。上野の指摘はすべての問題は平時の矛盾が有事に出てきたという見方が一貫して、ゆるがない。女子問題にまったく言及しない小池都知事に苦言も呈した。篠原は「人新世」の前触れとしてコロナ禍をとらえ、マイク・ディヴィスやデイヴィッド・ウォレス・ウェルズの素早い反応なども紹介していた。◆宮台は、各社会の危機管理の性能とその性能に応じた社会の支えがアンバランスであることを指摘したうえで、アメリカにはアレとコレが両立しない共時的矛盾があるが、日本にはかつての作法が通用せず、それなのに今日に通用する作法がまったくできていないという通時的矛盾がはびこっていると強調した。これは当たっている。ようするに日米両方ともにゼロ・リスクを求めるために思考停止がおこっているわけで、宮台としてはそれを突破するには「もっと絶望を」ということになる。◆多くの識者を集めた『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』(河出書房新社)も緊急出版だったが、こちらは一番大きな展望を提供した大澤真幸、シニカルな與那覇潤・笙野頼子、病理の仲野徹、アフリカ研究の小川さやか、ドゥルーズ派の堀千晶などが読ませたが、全体としては目次もあとがきもない促成本だ。ところで、GOTOキャンペーンとともに、大きなお世話だと言いたいのが「ステイホーム」の標語だが、どこかの首長が「どうぞ、ゆっくり本をお読みください」と言っていたのとはうらはらに、圧倒的にネット読みとテレビ視聴率が上がっただけだったらしい。, ◆ぼくの仕事場は、建物としては赤堤通りの角の3階建のスペースそのものである。そこは編集工学研究所が借りていて、1階の井寸房(せいすんぼう)や本楼(ほんろう)、2階のイシス編集学校の事務局にあたる学林と制作チーム、3階の企画プロデューサー・チームと総務・経理などに分かれている。その3階に松岡正剛事務所も入っていて、ここに太田・和泉・寺平・西村の机、そしてぼくの作業用書斎がある。◆作業用書斎といってもとても小さい。部屋ではなく書棚で囲んだ領土(領分)になっていて、8畳まで広くない。ふだんは、この「囲い」の中の大きめの机の上にシャープの書院とDELLのパソコンが並んでいて、二つを同時に使って執筆する。両方とも通信回線は切ってある。だからぼくへの通信は松岡正剛事務所のスタッフを通してもらわなければならない。ケータイ(スマホは持たない)も番号を知る者はごく少数なので、めったに鳴らない。メールも切ってある(メールは30年間、使っていない)。◆「囲い」の書棚には、数えたことはないけれど、3000冊ほどの本がぎっしり詰まっている。思想系の本と新着本と贈呈本ばかりで、選書の基準は「できるだけ複雑に」というものだ。「面倒がかかる本」ばかりが集まっているのだ。ただ、すでに満杯である。だからときどき棚卸しをして、各階に配架して隙間をあける。配架といっても、全館の書棚にはすでにおそらく6万冊以上の本が入っているので、こちらももはや溢れ出ている状態だ。だから二重置きしているほうが圧倒的に多い。それでも、たいていの本の位置は太田と寺平がおぼえている。◆作業書架「囲い」には、本と机とPCのほかには何もないが、二つだけ格別なものが用意されている。ひとつは肺癌手術をしたあと、事務所が導入してくれたリクライニングチェアだ。食後や疲れたときにここに坐り、たいてい本を読む。ほどなくして疲れて背を倒して寝る。これはほぼ日課になってきた。◆もうひとつはこの「囲い」ができた当初から和泉が用意してくれたもので、洋服箪笥と狭いクローゼットが書棚の裏側に隠れるようにして、ある。ここで着替えるのだが、この作業がぼくには必須なのである。本を摘読することと着替えることとは、まったく同義のことであるからだ。「本」と「服」とは、ぼくにはぴったり同じものなのだ。実はもうひとつ同義なものがある。それは「煙草」と「お茶」(あるいは珈琲)だ。◆以上、ぼくは、こんな「ほんほん」な状態で日々を送っているのです。ちなみに自宅の書斎はもっと小さい。書院とipad、それに書棚が二つで、本の数はごく少量だ。いつも300冊くらいが少しずつ着替えているくらいだと思う。, ◆自粛とテレワークが強いられているが、メディアで見ているかぎり、有事の中の緊張はないようだ。戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。◆緊急事態宣言が解かれても、ワクチンや治療剤が登場するまでは、なお異常事態が続いていくとも見るべきである。その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。経営もしだいに逼迫していくだろう。なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。◆一般に、多くの医療は「至近要因」に対処する。人間一人ずつに対処して治療する。これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。いわば人類が相手なのである。人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。◆かつて動物行動学のニコ・ティンバーゲンは、そのように「生きもの」を見る前提に「4つのなぜ」があると説いた。①適応の機能に関する「なぜ」、②系統発生にもとづく「なぜ」、③器官や分子に関する「なぜ」、④個体の維持に関する「なぜ」、の4つだ。これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。ゼツヒツの1冊だ。◆こういうふうに、われわれを「生きもの」として見る医療は「進化医学」とも言われる。進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。◆このような進化医学については、定番ともいうべきランドルフ・ネシーの『病気はなぜ、あるのか』(新曜社)が興味深かった。「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。◆進化医学をもう少し突っ込んでいたのは、ぼくが読んだかぎりでは、シャロン・モアレムの『迷惑な進化―病気の遺伝子はどこから来たのか』(NHK出版)やポール・イーワルドの『病原体進化論―人間はコントロールできるか』(新曜社)だ。いずれも大いに考えさせられた。イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。, ◆先だってちょっとばかり濃いネットミーティングをしたので、その話をしておく。COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。◆毎期のHCUでは、最終回は塾生を相手にぼくのソロレクチャーと振り返りをするのが恒例定番になっていたので、一応同様のことをしようと思ったのだが、せっかくネットワークを通すのだから、過去期の塾生にも遠州流の家元や文楽の三味線やビリヤードの日本チャンピオン(大井さん)などのゲストにもネット参加してもらい、さらにイシス編集学校の師範何人かに参加を促した。◆加えてベルリン、上海、シリコンバレーからの視聴・発言も促し、過去期ゲストの大澤真幸、田中優子、ドミニク・チェン、鈴木寛、池上高志、武邑光裕、宮川祥子さんたちも、フルタイムないしは一時的に参加した。さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。◆オンライン・ミーティングソフトはZOOMにしたが、それだけでおもしろいはずがない。まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。だからテレワークをしたわけではない。ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。◆たんなるテレワークというなら、45年前に杉浦康平と毎晩2時間ずつの電話によるテレワークだけで分厚い『ヴィジュアル・コミュニケーション』(講談社)1冊を仕上げたことがあった。当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。◆というわけで4月25日は、テレワークでもネット会議でもなく、新たなメディアスタイルを試みたかったわけである。はたしてうまくいったかどうか。それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。◆かく言うぼく自身も、こんな試みを多人数でするのは初めてのことなので、中身もさることながら、いったい自分がどんなふうにリアルとネットを縦断したり横断したりすればいいのか、きっと自動カメラの前に顔を貼り付けてばかりいたら、すべてが「死に体」になるだろうと思い、大きな鉄木(ブビンガ)の卓上でたくさんの本を見せたり、動かしたりすることにした。書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。◆そこへ編集学校でテスト済みの、ときどきスケッチブックに太い字を書きながら話すということも混ぜてみた。けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。76歳には過剰だったのかもしれない。まあ、それはともかく、やってのけたのだ。◆今期のHCUのお題は「稽古と本番のAIDA」だった。すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。◆すでに今期の参加者全員がぼくの千夜千冊エディション『編集力』(角川ソフィア文庫)を課題図書として読んできてもらっていたので、随所に『編集力』からの引用などをフリップにして挿入した。たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。◆一方、ウイルス・パンデミックの中でこのAIDAを振り返るには、きっとこういう時期にこそ「平時と有事のAIDA」を議論しなければならないだろうと思い、話をしばしばこの問題に近寄せた。とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。◆とくに「有事」はエマージェンシーであるのだからこれは「創発」をおこすということであり、さらにコンティンジェンシーでもあるのだから、これは「別様の可能性をさぐる」ということなのである。このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。そのことに苦言を呈した。もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。◆もうひとつ強調しておいたのは、いまおこっていることはSARSやMARS以来のRNAウイルスの変異であって、かつ「ZOONOSIS」(人獣共通感染状態)の変形であるということだ。つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。◆そんな話をしながら、7時間を了えた。ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。, ◆世界中がウイルス・パンデミックの渦中におかれることになった。RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。◆ちなみに「変異」や「変異体」は21世紀の思想の中心になるべきものだった。せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。◆それにしても東京もロックダウン寸前だ。「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。そのうち放逐されるだろう。◆もともとぼくは外に出掛けないタチで(外出嫌い)、長らく盛り場で飲んだり話しこんだりしてこなかった。学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。下戸でもある。だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。◆これはギリとニンジョーからするとたいへん無礼なことになるのだが、ぼくのギリとニンジョーはどちらかというと孟子的なので、高倉健さんふうの「惻隠・羞悪・辞譲・是非」の四端のギリギリで出動するようになっている。たいへん申し訳ない。◆ついでにいえば動物園はあいかわらず好きだけれど、ディズニーランドは大嫌いだ。レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。◆スポーツ観戦は秩父宮のラグビーが定番だったけれど、平尾誠二が早逝してから行かなくなった。格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。ごめんなさい。子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。◆つまりぼくは、できるかぎりの脳内散歩に徹したいほうなのである。それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。◆ところで、3月20日に『日本文化の核心』(講談社現代新書)という本を上梓した。ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。◆ほぼ同じころ、『花鳥風月の科学』の英語版が刊行された。“Flowers,Birds,Wind,and Moon”というもので、サブタイトルに“The Phenomenology of Nature in Japanese Culture”が付く。デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。出版文化産業振興財団の発行である。◆千夜千冊エディションのほうは『心とトラウマ』(角川ソフィア文庫)が並んでいる最中で、こちらはまさに心の「変異」を扱っている。いろいろ参考になるのではないかと思う。中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。, ◆このところ、千夜千冊エディションの入稿と校正、ハイパーコーポーレート・ユニバシティの連続的実施(ビリヤード、遠州流のお茶)、講談社現代新書『日本文化の核心』の書きおろしと入稿、角川武蔵野ミュージアムの準備、ネットワン「縁座」のプロデュース(本條秀太郎の三味線リサイタル)、九天玄気組との記念的親交、イシス編集学校のさまざま行事などなどで、なんだかんだと気ぜわしかった。◆こういうときは不思議なもので、前にも書いたけれど、隙間時間の僅かな読書がとても愉しい。1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。◆さて、世間のほうでも隙間を狙った事態が拡大しつつあるようだ。新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。◆ウィルス(virus)とはラテン語では毒液とか粘液に由来する言葉で、ヒポクラテスは「病気をひきおこす毒」だと言った。けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。まさに隙間だけで動く。◆定義上は「感染性をもつ極微の活動体」のことではあるのだが、他の生物の細胞を利用して自分を複製させるので、まさに究極の生物のように思えるのにもかかわらず、そもそもの生体膜(細胞膜)がないし、小器官ももっていないので、生物の定義上からは非生物にもなりうる超奇妙な活動体なのである。◆たとえば大腸菌、マイコプラズマ、リケッチアなどの「バイキン」は細胞をもつし、DNAが作動するし、タンパク質の合成ができるわけだ。ところがウィルスはこれらをもってない。自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。だから他の生物に寄生する。宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。◆気になるのはウィルスの中核をつくっているウィルス核酸と、それをとりかこむカプシド(capsid)で、このカプシドがタンパク質の殻でできている粒子となって、そこにエンベロープといった膜成分を加え、宿主に対して感染可能状態をつくりあげると、一丁前の「完全ウィルス粒子」(これをビリオンという)となってしまうのである。ところがこれらは自立していない。他の環境だけで躍如する。べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。◆おそらくウィルスは「仮りのもの」なのである。もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。◆ということは、これは知っていることだろうと思うけれど、われわれの体の中には「悪さ」をしていないウィルスがすでにいっぱい寝泊まりしているということになる。たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。◆急にウィルスの話になってしまったが、ぼくが数十年かけてやってきたことは、どこかウィルスの研究に似ていたような気もする。さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。, 多作な作家のすべての作品を読むということはめったにない。それが『江戸川乱歩全集』(桃源社)は一夏で読みきった。ごく軽く読めるからだが、そのかわりいま思い出そうとすると、いくつもの筋が混乱している。そういうなかで初期の『屋根裏の散歩者』『人間椅子』『パノラマ島奇談』『押絵と旅する男』『陰獣』あたりだけはくっきりと屹立している。 乱歩はラジオの「少年探偵団」のころから夢中だった。明智小五郎と怪人二十面相と小林少年ばかりの他愛のない話ばかりだったとおもうが、いつもどきどきしてラジオに齧りついていたばかりか、主題歌「~勇気りんりん瑠璃の色ぉ、~夕焼け空にこだましてぇ、~ぼ・ぼ・ぼくらは少年探偵団」はいつもこれを口ずさみ、スキップしながら学校から帰ってきたものだった。, そもそも乱歩という作家、どうも捉えどころがない。文章がうまいわけではないし、筋書も精緻ではない。人格描写は紋切り型で、心理描写もたいていは一様なのである。それなのに、なぜか魅力がある。 その理由がわかりにくい。エドガー・アラン・ポーを文字って江戸川乱歩とペンネームをつけただけあって、ポーのスピリットを継承していると言いたいところなのだが、たしかにスピリットは感じるものの、それが構成や描写に生かされているとは言い難いし、推理小説を日本に興し、欧米の探偵小説を案内しつづけた先駆性が凄いのだろうが、それほど世界の代表作に通暁しているわりには、あまりそれらの影響がない。 そこで、どうやら乱歩独自の妖異怪奇の趣味が魅力の正体だろうと見当をつけたくなってくる。おそらくは、そうなのだろう。しかし、その妖異怪奇の趣味は、たとえばゴシックロマンやラブクラフトやレ・ファニュや秋成や鏡花にくらべて卓抜かというと、そうでもなく、なんだか安っぽい。だから文学論として乱歩を議論するにはいささか物足りなくなってくる。実際にも、これまでの乱歩研究は決して文学理論めいてはいなかった。 しかし、しかしなのである。 この「本格的なるものとの比較」をなぜか逸脱するところが乱歩の狙いだったのではあるまいか。ぼくはそう思っている。そこにはまた、明治27年に生まれて、大正末期昭和初期に作品を書きはじめたということ、すなわち「日本が近代を装ってそれが完成しつつあるときに、その装いのすべてを失っていった」という時代がつくった幻影も関与しているにちがいない。, だいたい乱歩はあえて安っぽい装置や調度や擬装を使ってきた。他人になりすます変装といい、ビルに照らし出す幻想といい、人形がすぐに生きた人間に見えてしまうことといい、そんなことで人が騙せるのかとおもうようなトリックばかりが使われている。 けれども、それはわざわざ乱歩が選んだトリックなのである。同時代から選び出した大正昭和の日本人の幻影には、そのような安っぽい装置や擬装が必要だったのだ。 写真1(本文下)を見てほしい。これは昭和5年の国技館付近の写真だが、ここには乱歩の作品がそのまま反映されている光景がある。いや、このような都会が東京だったから、乱歩はその都会の現実をそのまま幻影に仕立てたのだった。実際にもこの国技館をめぐっては『吸血鬼』の舞台としておどろおどろしくなっている。 もうひとつ、写真2(本文下)を見られたい。これは昭和5年に乱歩が怪奇人形師・井上勘平を訪れたときの写真だが、子供騙しの化物屋敷に出てくるような人形ばかりが立っているのに、乱歩はその中央で勘平とともに真剣な顔をして正座している。 これが乱歩なのである。 安っぽいのではなく、キッチュなのでもなく、当時の都会が醸し出す日本人の怪奇幻想を、文字通り言葉で演出したと考えたというべきなのだ。それは、いまなら「われわれが懐旧する都会の心理的陰影」とか「角を曲がったとたん出くわす忘れていた街頭の影」とか「机の抽斗に放置されたオブジェの意味ありげな主張」といったものになるのだろうが、それを乱歩は、まさにその場その時に臨んで、これを描いたのである。 つまり乱歩は、不思議なことに最初から「何がのちに懐かしい怪奇となるか」を知っていたということになる。, こうした、結局は乱歩が計算し尽くしたあげくに設定したのであろう怪奇の装置と妖異の筋書が最も端的にあらわれたのが、ここに採り上げた『パノラマ島奇談』だった。「新青年」に連載のうえ、昭和2年に単行本になった。 物語については紹介することもないだろう。 売れない作家の人見広介が、自分に瓜二つの資産家が急死したのをさいわい、これになりすまして、その資産のすべてを人工楽園づくりに賭けるという話で、未亡人がこのニセの夫の不気味な計画に感づきつつも人工楽園島をめぐるくだり、そのニセの夫の犯罪が暴かれるくだりをへて、もはやこれまでと覚悟した人見が、巨大な打ち上げ花火となって自身の人肉を夕刻の空に散らすという壮絶なラストシーンが有名な作品である。 乱歩はここでカベーの『イカリア旅行記』やモリスの『無可有郷通信』とともにポーの『アルンハイムの地所』をあげ、これらに勝る人工楽園の構築を主人公に思いつかせた。, パノラマ島の光景については、さすがに乱歩は力を入れている。魚介から人魚までが電光のもとに天然色で水中に踊る海底トンネルをはじめ、数々の信じがたい奇岩景勝が繰り広げられる。しかも、大森林と見える森林模型はその全体が異様な妖魔の姿をあらわすといったふうに、随所に見立てを工夫した。 乱歩はこの光景を「行くとみえて帰り、登るとみえて下り、地底がただちに山頂であったり、広野が気のつかぬ間に細道と変わったり、種々さまざまの異様な設計が施される」とか、「来てはならないところへ来たような、見てはならないものを見ているような気持ちになる」というふうに作中に説明している。その全貌は「別々のパノラマが集まって、また一つのまったく異なるパノラマができている」ような、いわば部分と全体がいつだって入れ替わるパノラマなのである。 この美意識は、似たようなユートピック・ファンタジーの古典的名作であるコナン・ドイルの『失われた世界』やジュール・ヴェルヌの『地底旅行』とは、何かが根本的にちがっている。それは乱歩は徹底的に「みかけ」を重視したということだ。 では、「みかけ」とは何なのか。, 平凡社のコロナ・ブックスに『江戸川乱歩』があって、そこに13人の執筆者が13のキーワードをあげている。 ユートピア(団鬼六)、探偵(都筑道夫)、窃視症(荒俣宏)、人形愛(谷川渥)、サド・マゾ(鹿島茂)、フェティシズム(佐野史郎)、少年(須永朝彦)、コスチューム・プレイ(種村季弘)、洋館(久世光彦)、暗号(高山宏)、洞窟・迷宮(高橋克彦)、群衆(柏木博)、蜃気楼(北川健次)。 なるほど、なるほど。 それぞれ乱歩を言い当てている。たとえば『パノラマ島奇談』には「ユートピア」「洞窟・迷宮」にぴったりあてはまる。けれどもよく読めばすぐにわかるように、パノラマ島では「人形愛」「フェティシズム」も、「サド・マゾ」「蜃気楼」も、少しずつ散りばめられているし、最後は「探偵」が出てくる。人見広介がニセの夫となって未亡人を“妻”として感じる感じ方には「窃視症」も香っている。のみならず、ここにはあがってはいないが、資産家の死体を掘り起こす場面には「ネクロフィリア」が、花火に執着しているところは「白日夢」というキーワードも生きている。 ようするに乱歩はすべての幻想怪奇の断片のすべてに関心をもったのであり、しかもそのいずれにも片寄っては加担をしなかったのだ。乱歩はこれらを巧妙にまぜこぜにした。 しかし最も注目するべきことは、これらのすべてが「みかけ」であったということなのである。 べつだん本式の議論をしたいわけでもなく、本格的な歴史を背景に敷きたいわけでもなく、また、本物としての人形や本物としてのフェティシズムを登場させたいわけでもなかった。暗示が効けば、それでよい。その気になってくれれば、それでよい。これは言ってみれば、乱歩は「それらしい異常」「異常なそれらしさ」「ひょっとしたらそうかもしれないほどの不気味」に夢中だったのである。そして、ここにこそ乱歩の乱歩たるゆえんがあるはずなのだ。, ついでに、言っておきたいことがある。 ひとつには、江戸川乱歩は江戸川乱歩という伝説的存在をつくったことが江戸川乱歩なのである。 まず探偵小説をつくった。探偵小説なら乱歩となった。明智小五郎と怪人二十面相をつくって、怪しいドッペンゲルガーなら乱歩ということになった。性的に卑しい欲望をもつ心情の持ち主を主人公において、どんなエログロも乱歩につながるようにした。加えて、どんな犯罪者も江戸川乱歩の見解と関係があるかもしれないという錯覚を築き上げた。 さらには「新青年」に依って新青年となり、洋館に住んで洋館主人なら乱歩ということにした。ついでに蝋燭で原稿を書いているという噂の主人公にもなった。それから「探偵作家クラブ」の主宰者になって、後進の指導者となり、江戸川乱歩賞の本人となり、そして大正昭和浪漫の当事者になった。 こういう乱歩がいたのである。, もうひとつは、乱歩は少年愛と男色の研究者であって、実際にも男色にひとかたならぬ関心を寄せつづけていたということだ。 これに関しては南方熊楠、岩田準一、稲垣足穂に匹敵する大御所というべきで、ぼくなどはこの男色研究者としての乱歩があったればこそ、すべての乱歩が隠然と輝き続けたのではないかと思っている。このことについては足穂の『少年愛の美学』を参照してほしいけれど、いまとりあえず強調しておきたいことは、この男色研究は精神の抽象性がないことには、何も成果があがりはしない領域だったということである。 つまりは、江戸川乱歩は作品の中身がもつ印象よりもずっと抽象的な人物で、そうだからこそ卑俗な主題を遠方から操作することが好きな人物だったということなのである。, (では、しばらく「千夜千冊」は休載です。次は600冊目。8月19日にどーんと行きます。それまではちょっと昭和と山水を乱歩しています), 「幻影城」の土蔵は、今も主の面影を残し池袋に残る。雑然と本が並ぶ書棚は、さながら乱歩の脳内巡り。.